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3月11日午後2時46分。東北から関東を襲った東日本大地震。
関西でも大きな揺れを感じ、すぐにテレビに向かった。
地震や、地震後すぐにおし寄せてきた津波による被害状況がまったくつかめない中、被災地に住む友人や仲間への連絡を繰り返すが、まったくつながらない・・・・。
家屋の倒壊や火災、そして津波による被災状況をテレビ画面に映し出される映像とキャスターからのレポートでしか知ることが出来ない。
仙台市に住む友人から折り返しの連絡が入っるころには、すでに震災から3日が過ぎていた。
「大丈夫か?」
「大丈夫だ!」
「みんな生きてるか?」
「ありがとう。みんな無事だ!」
あれだけの被害をうけながらも、気丈に振舞う仲間からの明るい声に、まずは、ほっと胸をなでおろすと同時に、こちらが励まされたような気がした。
「何か、必要なものはないか?」
「ガソリンが欲しい・・・。とにかく人や物を運ぶにも、使える車やガソリンがない。」
「わかった。すぐに明石から送るから。」
私達はすぐに、タンクローリーを持つ会社やガソリンスタンドとかけあって、彼のもとに送れるだけのガソリンを送るための手配をはじめた。
電話をもらってから2日目、ようやく準備が整った。明にはタンクローリーで出発という段階で、「高速道路だけではなく一般道も通行車両の制限が入っている。仙台市の被災地へ車両が乗り入れることが出来ない。もし入れたとしても帰ってくることが出来ない・・・」という連絡が入る。
それから、あの手この手と策を練るものの、最終的はガソリンの輸送を断念・・・。
悔しかった。
他に出来ることは?私たちが被災地にできる支援とは?
中村建設の社員全員で考えた。何時間も何時間も考えた。
連絡をくれた仙台市の仲間も、私たちと同じ工務店。
「家」という、人々の生活の拠点となり家族をつなぐ場所を、真剣に考え造りつづけることに熱い想いや志(こころざし)をもつ同志である。
1995年1月。私たちは、阪神・淡路大震災を経験した。
当時の私たちは、建築を請け負わせて頂いたすべての家屋を順番に回って歩いた。
災害発生直後のこの時期に一番必要だったもの。 それは、「ブルーシート」と「コンパネ」だった。
それも、膨大な量のブルーシートとコンパネが。
仮設住宅が整備されるまでの間、“とにかく雨や風をしのぐための対策”が必要であることを、私たちは知っている。
中村建設の代表である中村和也は、すぐさま中国に飛んだ。目的は「コンパネ調達」の為に。
中国から輸送されてきたコンパネと、国内で調達したブルーシートを3台の10tトラックに乗せ、一路、仙台に向かう。
仙台市に到着した私達は、言葉を失った。
あるはずの街が、そこにはなかった。
大きな揺れや津波が、家や街はもちろん、人々の生活ごと奪っていった。そこにはただ、爪痕だけが、残っているという印象。
私たちが、阪神・淡路大震災の時に感じ見た“あの悲劇”とは、また違う感触のもの。
あの時に感じた絶望感が蘇り、不安やむなしさの記憶に包まれて、被災者である仲間に「頑張ろう!」という、応援の言葉すらかけれれない自分に気付いたころ、被災者である仲間がこう声をかけてくれた。
「俺、この街を、もう一度、明るく素晴らしい街に戻したいだ。力を貸してくれ。」
幸いなことに、私たちには、北海道や東北方面に住む、建築工事の各専門会社とのネットワークがあった、被災者でもある彼らに協力要請のお願いをしたところ、
「今、不安を抱く家族と過ごす時間の大切さを改めて感じることと同じくらい、この街の復興の為に、自分達のもつ技術と労力を提供したい。」
と心強い承諾を得ることができた。
この日から、仙台市を中心とする、弊社の被災地支援プロジェクトが本格始動となった。
まずは、仮設住宅の建築。そして同時に全壊・半壊住宅の新築並びに改修工事。
この工事に携わるすべてのスタッフが、「利益なんかいらない。ひとつでも多くの家を、再び家族が安心して暮らせる場所にすることに力を注ぎたい!」と言ってくれた。
勿論、私たちも想いは同じ。みんなの心と体がひとつになった気がした。
とにかく、人や材料、道具や重機、すべてが不足する中での私たちのプロジェクト。
その現地から送るレポートを、ブログを通じてお伝えしていきたいと思います。
「 WITH YOU 頑張れ!」東日本 〜 今、大工である私達にできること。〜
どうぞ、応援して下さい。東日本で必死に立ち上がろうとする私たちの仲間たちを。
そしてどうぞ、見守ってあげて下さい。彼らの頼もしい後ろ姿を。
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